ノモンハンの空中戦で名声をあげた陸軍最初の低翼単葉制式戦闘機で、その軽快な運動性は、近代戦斗機中の白眉的存在であった。
当時(昭和10年)の軍の要求は、速度を多少犠牲にしてもまず格斗性能を重視し、三菱のキー18(海軍の96式艦戦)、川崎のキー28(低翼単葉固定脚、川崎ハー9Ⅱ型甲水冷800HP 装備、3式戦と外観が似ていた)と中島のキー27を競争試作させたが、たとえキー28が毎時485kmの最大速力を発揮したにせよ、結局運動性の卓越したキー27が、97式戦斗機として採用されたわけである。
昭和11年10月15日に進空式が行われた本機は、中島で研究されたN.N.系(Nip-pon Nakajima)翼断面を用い、主翼面積も18.6㎡、17.4㎡、16.4㎡の3種をあげ、いずれも試作するという万全の方法がとられた。
運動性を良くするために、軽減には大いに努力がはらわれ、翼面積荷重を88kg/㎡に押えたが、このため極めて不利な態勢から容易に優位をとれ、巴戦でも殆んど失速せず近距離の一騎打ちに最適な戦斗機になった。これによりいわば操縦者の名人芸なるものが生まれて射撃も勘により左右される結果となった。
最大速度は460km/h(高度3,500mにて)で、ノモンハンの初期にはソ連のI-15を徹底的に撃墜したが、I-16の出現に及ぶや速度不足によりやや苦杯をなめていた。
隼の量産が軌道にのると第一線を去ったが、本気の卓越した運動性は強くパイロットの印象にのこり、隼の出現をおくらせた一つの理由ともなった。しかしその後450HPをつんで、車輪スパッツをとつた練習機が作られ、また複座の2式戦斗練習機(キー79)にまで改造された。
設計もとの中島と、満州飛行機で、合計2,079機生産された。
実践記録
ノモンハン事件に参加したわが戦闘飛行隊は、第1次(事件の開始から6月20日まで)には
| 第12飛行団(飛行団長 東栄治少将) | 飛行第11戦隊(2個中隊、97戦18機)(戦隊長 野口雄次郎大佐) |
|---|---|
| 飛行第24戦隊(2個中隊、97戦18機)(戦隊長 松村黄次郎中佐) |
第2次(6月20日以降終結まで)には
| 第2飛行集団 (集団長 儀峨徹二中将) |
第12飛行団 | 第1戦隊(97戦) (戦隊長 加藤敏雄中佐) |
|---|---|---|
| 飛行 11戦隊(97戦) | ||
| 飛行 24戦隊(97戦) (8月上旬から檮原秀見中佐) |
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| 飛行第33戦隊 (95戦・戦隊長 青木武大佐) |
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| 飛行第59戦隊 (97戦・戦隊長 青木一策大佐) |
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| 飛行第64戦隊 (97戦・戦隊長 横山八男少佐) |
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| 第2飛行団―飛行第9戦隊 (95戦・戦隊長 灘波清作中佐) |
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で、これに対しタムスク付近の前線基地に集結したソ連側の戦闘機は、イー15とイー16の両機種だけでも第1次に於て120~150機、第2次に於て700~800機と推定された。
この事件で確実に撃墜又は爆破した敵機数は、第1次62期、第2次1190機、合計1252機でソ連に与えた打撃は甚大なものがあった。そして、それにも増して大きな収穫は、わが航空部隊が、ソ連空軍を圧倒しえるという信念を持つにいたったことであった。
この飛行機は、更に太平洋戦争の侵攻作戦に参加し、フィリッピン、マレー、ビルマ、蘭印の上空を制してその最後をかざった。
