伝統ある中島製の戦闘機で、隼、鐘馗同様小山悌氏以下技術陣総動員の下に、昭和17年4月より設計に着手し、第1号機は18年初頭完成した。本機は、防空戦闘機としての速度、上昇力と運動性、航続力を要求されて作られたいわゆる大東亜決戦機で、隼と鐘馗を調和した感じの機体である。
ハー45(海軍の誉、NK9A)をつみ、12.7mm×2(胴)、20mm×2(翼)という本機は、米国側からも「日本最高速の戦闘機で、最高時速は、650kmを超え、火力、防弾装置は十分である」といわれたが、軍の性能テストで624km/h(高度6,500m)を発揮し、量産機でも610km/h程度出していた。12.7mmの弾丸に耐え得る防弾タンク(翼内及び胴体座席下)と、9mm厚防弾鋼板を座席後方にもつため、紫電と共に燃えにくい戦闘機であったが、運動性は空戦フラップ15°の使用で相当期待されたものの、グラマンより若干劣っていたようである。高速戦闘機としては航続力は比較的あり、フィリピン付近では海上へ600km侵攻し(350ℓ増槽2個付で、30分の戦闘時間の余裕をもつ)ていた。
大東亜決戦機だけあって、中島の太田、宇都宮製作所は相次ぐ空襲にもめげず、量産を続け、19年末には太田のみで月産実に518機に達する張切り方であった。隼より工数ではかなり多かったが、とにかくよく作った。
この時期の的であった本機は、試作飛行時代は好性能ぶりを遺憾なく発揮したが、実施部隊へ続々配置されるようになると、多くの障害に逢い、期待に反する面が多かった。第一に発動機の不具合があげられる。「誉」発動機は複列18気筩にしては珍しいほどコンパクトにまとめてあり、工作にも名人芸的な緻密さを必要とするため、量産になると油洩れをはじめとして不具合箇所続出し、また整備も極めて困難で、稼働率では隼にはるか及ばなかった。第二は本機がよく「4戦は脚がすぐ折れる」といわれたことである。設計上では足の強度不足は考えられないというが、事実よく脚を折っていた。脚作動筒内の鋼製パッキング及びピストンリングの焼入れ温度が一定せぬため、硬度不定で割れが多く、油圧低下による脚の収納操作不良で胴体着陸機は多かったが、何しろ全備重量3,700kg、着陸速度160km/hという機体なので、車輪タイヤの高圧空気を入れすぎると一寸落下気味の接地をしても、集中荷重のため脚を折ることが多かった。老練なパイロットはほとんど脚を折らなかったが、誰がやっても安全な強度を十二分に与えなかったことは、重量軽減を強く要求されたためであり、日米の機体の大きな相違点でもあった。
空中における操作は概してよく(鐘馗に勝り、3式戦にやや劣る)高空における方向安定も良好であった。もっとも高空性能自身は期待されたほどでなく、20年になると油圧燃圧の低下が因をなして、8,500m以上に上昇できぬ機も相当出現し、B-29の邀撃に支障を来したほどであった。なお一部は低圧燃料噴射装置を使用していた。
中島最後の利器才であり、総計3413機生産されたが、その一部は操縦席後部を鋼製にし(キー113とも呼称)、また一部を木製にしたものもあった。(全部木製にしたのが立川のキー106)試作当初は単排気管ではなく、落下増槽も胴体下面につけられていた。
実践記録
最初にこの飛行機が姿を現したのは、昭和19年8月下旬中華大陸の戦線で、本機装備の飛行第22戦隊は、漢口を根拠として活躍し、在支米空軍に多いなる脅威を与えた。
飛行第22戦隊は、やがて比島に前進し、4式戦部隊たる飛行第1、第11、第51、第52、第200戦隊と共に、レイテ決戦に参加した。
補給が続かなかったのと、装備の関係から活動機数が逐次に減少し、絶対多数の敵に押しきられて、レイテの空を遂に敵に委ねた。
また、沖縄決戦にも活躍したが、特に、昭和20年4月15日夜の沖縄北、中飛行場に対する突入作戦であろう。この夜、第100飛行団の廷進戦闘機4式戦11機は、北、中飛行場に突入し、タ弾及び、砲撃によって在地敵機を攻撃、沖縄島の友軍は、大爆発の起るのを認めた。わが方の8機は未帰還、1機は喜界島に不時着した。
