昭和12年3月、陸軍は双発複座戦闘機の研究試作を川崎航空機に下命した。これはキー38と名附けられ、同年10月には詳細なモックアップが完成して基礎設計も終了していたが、軍はこの結果にもとずいて、新たに同年12月、キー45の新名称による双発複座戦闘機の設計試作を命じた。しかし当時は未だ軍においても軽単座戦闘機による巴戦式の空戦思想が根強い折から、この新複座重戦の性格に関してない地でも意見対立して仲々まとまらず、会社側でも基礎設計を纏めるのに相当苦心をしたようである。
本機のような双発形式、しかも空冷発動機の装備は川崎としては最初であるので、設計、製作上に種々の難関があつたが、昭和14年1月、第1号機が完成して処女飛行が行われるまでになった。ところが本機の脚はギヤ及びチェーン使用による機械的手動式引込脚を使用したところ、この機構が非常に不具合で、その上発動機が当時施策の域を脱しない中島ハ-20乙を装備していたため十分な調子が出ず、試験飛行はなかなかはからどなかった。同年5月完成した第3号機から脚を電動式引込式に改良したため、幾分この不具合は除去する事ができたものの、発動機の不調はどうにもならなかった。その上、本気の大きな欠点の一つであるナセルストールの問題の解決には相当手を焼いたようで、一時は苦肉の策として、川崎発動機工場でハー20乙の改造型を試作して左右プロペラを逆回転にしようとしたが、軍が、ハー20乙を採用しないことを決めたため、この計画はお流れとなり、結局ナセル附近の翼面に小さなスリット(隙間)を設けて、幾分これを防止し得た程度であった。
あれやこれやで、約1年も審査が続けられたが、十分な性能は出ず、これに引掛って再び軍部内の重戦に関する懐疑思想が再燃し、徒に月日が流れるばかりであった。会社側では完成した3機の試作機の他に、9機の増加試作に着手していたが、このような状況下に遅々としてはかどらなかった。
15年4月に至って発動機をハー25(海軍の栄)に換装することが決し、これを装備した7号機は7月に初飛行した。ところが第1回飛行で離着陸後、カウルフラップを全開し上昇に移ったところ猛烈なナセルストールを起こし辛うじて着陸したもののプロペラ、脚、翼端等を破損してしまった。しかし昼夜兼業の修理により8月末に再飛行した時には大した問題は起こらなかったので、既に完成していた4、5、6号機も同発動機に換装した。そしてこれらの結果にかんがみ、同年10月にキー45改として、その第2次性能向上機の施策並に整備機の生産が命じられた。
キー45改は原型の短く丸い機種を鋭く延長し、また胴体下部右側に37mm機関砲を外装するための凹みを設けたりしたが外見上の変化意外に細部構造にかなりの改良がみられ、16年9月に第1号機完成、引続き岐阜工場において2式複座戦闘機として整備機生産を開始、明石工場でも17年9月の初号機完成を手始めに量産が続けられた。その後さらに発動機はより強力な三菱製のハー105に改装され、性能も信頼性も更に向上した。
太平洋戦の前半に主として南方地域で活躍したが、昭和19年以後13mm斜め銃ー陸軍では上向銃と称したーを背負って陸軍唯一の野戦として海軍の月光と並び、本土防空に奮戦した。試験機としては主種の改装機があるが、中でも機首を延長して木製枠のフレキシグラス張りの中に、レーダーを装備したりしたのは、珍しいものの一つであろう。機首の武装は12.7mm機銃2門と20mmもしくは37mmの機関砲を組み合わせた種々の形式があり、その重武装を利して対地、対船舶攻撃用としても有効であったといわれる。昭和20年初頭まで生産は継続し、総計約1700機であった。
実践記録
昭和19年5月27日、ニューギニア沿岸沿いに進撃する敵が、ビワク島のわが守備隊に猛攻を加えたとき、高田勝重少佐の直率するわが戦闘機4機は、友軍の危機を救うべくビワク島南岸の敵艦船に体当たり攻撃を敢行し飛行機諸とも、肉弾を以て敵艦を轟撃沈した。
この壮絶極まる攻撃精神は、たちまち全軍に伝えられ、特攻の先駆となった。この戦闘機こそは2式複座戦闘機であった。
本機はもともと、掩護戦闘機として誕生したものであるが、防空戦闘機、特に夜間防空に主用された。昭和19年6月15日夜、中国大陸から、B-29が北九州に来襲したとき飛行大4戦隊の本機8機は、これを邀撃して7機(内3機は不確実)を撃墜した。
東京防空のためには、飛行第53戦隊(所沢に配備)、中部地区の防空のためには飛行第5戦隊が、本機で装備されて活躍した。
また、ラングーン、パレンバン、ハノイ、鞍山などの防空にもこの飛行機が活動した。
