97式重爆撃機(キー211-~2)

93式重爆の後継者たる97重は昭和10年に内示をうけ、11年2月に試作指示をうけた機体で、中島のキー19と共に競争試作を行った。

当時の試作要求は、(1)最大速度は400km/h(高度3,000)、(2)常用高度2,000~4,000m(当時は2速の過給器は実用性なかった)、(3)航続時間は巡航300km/h以上で5時間、(4)上昇力は3,000mまで8分(5)爆撃搭載量は標準で750kg(最大1t)(6)座席は4、(7)全備重量は6400kg以下、(8)滑走距離は300m以下、(9)型式は双発低翼単葉、(10)エンジンは、ハー5(中島)又はハー6(三菱)、(11)脚尾輪は引込式とする。(12)防寒に充分留意すること(シベリヤでの戦闘を考えていた・・・・)等々であった、今から思えば実に幼稚な要求だが当時としては93重から大分飛躍したものであった。

三菱の試作機(処女飛行は11年12月17日)はハー6をつみ、ハー5をつんだ中島のキー19と競争したが、試験飛行中問題になった点は、方向安定、縦安定がやや悪いということで、昇降舵、方向舵の改修でどうやら落着いた。他は別に欠点は認められないで済んだが、中島のキー19も決してひけをとる機体ではなかったのである。結局、発動機は信頼性のある中島のハー5を採用して、キー21を三菱、中島の妥協の下に三菱で生産するということになったらしい。

97式1型重爆として採用されたキー21は発動機を中島のハー5に変え、トップ銃座を円錐形回転式(最初は銃のみ動いた)にした以外試作機と変わらなかったが、増加試作中にフラップ面積を大きくしたり、爆弾扉開閉装置を改修している。

昭和12年の暮近く、97重爆は実施部隊に配属されたが、軍では渡洋爆撃で名声をあげた96陸攻に刺戟されて、航続力の延長を考えようと指令してきた。

また支那事変の苦い経験から、防弾防火、武装の強化(特に後方)を行うようになった。三菱では1型の量産機に着々改修を行ったが今から考えると全く貧弱な対策に終始した。即ち防火の点では、洩れたガソリンが排気ガスにふれて燃えるというので、排気管の位置を変えたのみ、あた防弾対策としては、パイロットの背後と翼内タンク後方に4mm厚の防弾鋼板をはったけれど、7.7mm機銃にも耐えられないおそまつな代物だった。

昭和14年になると、速度向上を計るよう指令され、ハ―101に発動機を強化した2型が出来上がった。航続力、装甲面の改良と共に後方の武装がやかましく要求され、従来の後上方銃の射界を広くする一方、尾部に7.7mmの遠隔官制銃が設けられた。これは後上方銃と連動していたが、射界が狭く、本格的なものではなかったわけである。なお後半には、大きな球形銃座をつけて射界を広めたものの、戦闘時の速度低下はつらいところであった。

操縦者から見ると、本機の1型は好評であったが、2型では機体は1型と同じなのに、馬力だけをあげているので、舵が重くなり、特に昇降舵の効きが香しくなくなった。

太平洋戦争で2型はよく飛んだが、航続距離の短かったことは、海上航法に不慣れなことと相俟って致命的となり、陸攻陣にやや押された形であった。生産数は約1800機。

実践記録

本機は、支那事変の初期から太平洋戦争の中期にかけて活躍したもので、支那事変時代のものは1型、太平洋戦争に入ると2型に改良されていた。

1型の活動として目立ったのは、昭和14年10月下旬に実施された蘭州攻撃であった。即ち10月26日から28日に亘る3日間、飛行第60戦隊の36機は、海軍航空部隊と協同し、運城を基地して長駆敵の要衝蘭州を攻撃し、敵機約20機を撃墜したほか、重要施設に大損害を与えた。太平洋戦争で1型装備の部隊は飛行第14戦隊だけであったが、この部隊は、比島攻略作戦、香港攻略作戦に参加し、ついで、ビルマに転戦した。ビルマの戦闘では英空軍と対決したが、防弾、防火装備が薄弱であったため、敵戦闘機の攻撃目標となり、かなりの痛手を受けた。

2型は太平洋戦争を遂行した重爆の主力で飛行第12、第60、第62、第98戦隊に装備されていた。これらの部隊は、マレー、蘭印ビルマ等の作戦に参加し、航空撃滅戦に、地上作戦協力に縦横に活躍して偉功を奏した。またバレンバンの空輸挺進作戦に際しては、第1挺進団と協同し、防禦火網を以てその空中行動を掩護し、兵器、その他の物料の投下に任じた。

昭和14年中期、ビルマ方面での対地威力機の主力は依然としてこの飛行機で、カルカッタ攻撃に威力を発揮したが、1型機と概ね同じように、防弘、防火装備の薄弱のため、被害も少なくなかった。

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