昭和10年、陸軍は東亜の風雲と世界航空の情勢にかんがみて全制式機種の一大刷新を計画した。これがいわゆる97、98式といわれる一群の近代的単葉機群である。本機はその中の単発軽爆撃機として、三菱名古屋製作所の河野・大木両技師のコンビニにより川崎のキー32(98軽爆)と並んで試作された。川崎の水冷式に対し本機は空冷式であったが、比較テストの結果本機の方が実用性が優れていることが認められ、制式機として量産に入った。
今から見れば何の特徴もない平凡な機体であるが、当時本機は海軍の97艦攻と共に、日本単発軽爆撃機としてのエポックを劃(くぎ)したものである。すなわち片持式単葉フラッペ附の主翼、複列星型発動機、可変ピッチプロペラの採用等はいずれもこの機種として我が国最初のものである。特に海軍の97艦攻が引込脚を使用したのに対し、本機は固定式ではあったが、胴体内部爆弾倉を採用しているのは特筆すべき近代化であった。
しかし本機は誠におとなしくまとまって使いやすい飛行機であったが、やや大型で軽快とは言い難く、また前述の胴体内爆弾倉のため必然的に中葉形式となって降着装置が長く不恰好なものとなり、また前後座席間隔が非常に離れて―このため視界はよかったが―乗員間の連絡に著しく不便であった。本機程度の性能では無理に爆弾を胴体内に収容する必要はなく、もっとコンパクトに軽快にまとめるべきであった。この線にそって本機から発達した99式軍偵(キー51)の好評から見ても裏書きされると思う。
生産は三菱名古屋工場で行われ、主に支那大利で活躍した。”特色のないのが特色”といわれるほどの地味な飛行機であったが、わが国近代爆撃機の一つの先駆として一層注意しておくべき機体であろう。
三菱及び立川陸軍工廠で約700機生産された。
実践記録
本機が最も盛んに活躍したのは、中国大陸であった。支那事変の初期、本機装備の飛行第90戦隊は、概して北方方面で地上作戦に密接に協力し、戦場爆撃にその威力を発揮した。また中支方面で活躍したのは本機装備の飛行第32戦隊であった。
本機の最後の活動舞台は、太平洋戦争第一弾のフィリッピン進攻作戦であった。昭和16年12月中旬、飛行第16戦隊はアパリに躍進し、ここを根拠として中部ルソンの敵飛行場を攻撃した。また第14軍のリンガエン湾上陸及び、マニラ攻略、並びにバタン半島攻略戦に際しては、敵の戦車、自動車、砲兵陣地などを攻撃して、大いに地上軍の戦闘進捗に貢献した。
