99式双発軽爆撃機(キー48ー1~2)

93式双発軽爆撃機依頼、久々の双軽の試作が下命されたのは、昭和12年12月のことで、キー45双発戦と共に川崎航空が引き受けた。キー48と命名された本機に対する要求は、特に難題というべき問題ではなかったが、対ソ作戦用軽爆として、満州基地から国境附近の目標に反復爆撃を行うために、特に機動性が要求されていた。また後下方銃座と、最大400kg爆弾まで搭載可能の爆弾倉が指定されたため、本機の最大の特徴というべき胴体の特異な形状が決定した。設計は比較的スムーズにゆき、約1年半後の14年7月、第1号機が飛行、つづいて4号機まで完成しテストも好調に進んで、同年11月に浜松陸軍飛行学校における爆撃審査には優秀な成績を示し、直ちに生産に入って15年7月には整備第1号機が完成するというトントン拍子であった。

審査中に問題になったのは尾翼のフラッターであったが、これは尾翼位置を約400mm上方に移し、後部胴体を補強して解決した。これが99双軽1型といわれるもので、昭和17年までに約550機生産され、支那大陸及び太平洋線初期に大いに活躍した機体である。

ついで15年夏に1型の性能向上機として1型の発動機ハー25をハー115に変換した2型の試作に着手したが、発動機の生産遅延のため、生産に入ったのは17年4月であった。2型甲は発動機の変更のみであったが、2型乙は急降下爆撃機として、ナセル外方の主翼下面にスノコ板型のエアブレーキを装着して60°の急降下を可能ならしめ、また一部には垂直安定板前縁になだらかな背鰭(せびれ)を附したこともある。

相当長期間に全戦域で使用されたが、双軽としては速度が比較的遅い割に爆弾搭載量が少く、最大500kgしか積めず、安定も操縦性も特に優れているとはいえない平凡な機であった。試作機としても種々使われ、例えばネー0号パルスジェットを胴体下方に吊下げて飛行テストを行ったり、終戦直前のイ号兵器といわれる飛行爆弾の発進機として使用されたりした。また編隊司令機として爆弾を無くして多方面に銃座を装備したキー81も計画されたが完成はしなかった。1型は昭和19年10月までに生産を続け、2型とあわせて約2000機が生産された。

実践記録

本機は、支那事変、太平洋戦争を通じて活躍したが、特に着目すべきは、中国大陸における奮闘であろう。昭和19年早春第5航空軍は、敵空軍の撃滅を企図したが、当時太平洋方面の戦線に有力部隊を抽出され、爆撃戦力として期待し得るものは飛行第16、第90戦隊の双軽だけであった。本機はすでに旧式機に属し、昼間の敵地攻撃に到底成立しなかった。そこで専ら夜間攻撃によるようにかねてから準備され、単機で進攻して急降下攻撃を行い、訓練の成果によって戦果を得ようと企図された。

両戦隊は猛訓練の結果、夜間戦闘能力を著しく向上し、行動半径の先端にある重慶飛行場、その他、桂林柳州●州等の敵を夜間攻撃し、偉大な成果を挙げた。

昭和20年4月、沖縄作戦が開始されたとき、両戦隊の選抜機は九州に転身し、沖縄の敵飛行場を夜襲した。

川崎航空機年別生産数(岐阜工場)

機種 / 年16年17年18年19年20年
98式直協36144000
1式輸送機310000
ロ式輸送機20000
2式双戦614416100
3式戦1457102,180184
99式双戦006475080
4式重爆000685
5式戦0000378
合計483481,5182,694647
※試作機は含めず ※16年は12月のみ

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